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僕のNSP日記~其の181

僕のボーカル「雨宿り」は無事に終わり司会者とのトークなった。
次の曲の「結婚ごっこ」の話題で会場もだいぶ盛り上がった。計算通りだった。演奏が終わると会場からも大きな拍手が起こり僕たちは満面の笑みでステージを降り、ウォータークーラーがある喫煙所に歩いていた。

僕のNSP日記~其の182

岩地君は「ごめん緊張してリズム狂ちゃった」菊下君も「僕もギターを間違えた」僕は「でも歌は大丈夫だったから80で点合格だよ」そう言って冷たい水を順番に飲んだ。そこにNSPのプロモーターの人が入って来た。「あの2曲ともオリジナルなの?君たちプロになるつもりはない?」

僕のNSP日記~其の183


収録を終えた小林ディレクターも飛んで来て「凄い凄い。良かったよ」と興奮していた。続けて「ところで君たち幾つなの?」「まだ16歳です」将来性を自慢げに僕は答えた。小林ディレクターは「16歳⁈って君たち煙草吸ってるじゃないか!」そう、僕たち3人とも煙草をくわえていた。

僕のNSP日記~其の184


実を言うとメンバー3人とも喫煙者だった。と言っても一日3本ぐらいで練習終わりに吸ってた程度だった。その癖でラジオ終わりも興奮して吸ってしまった。小林ディレクターは「あのさNHKの番組だよ!ここは君たちの部屋じゃないんだ。高三ぐらいだと思ってたけど立派な不良だよ!」

僕のNSP日記~其の185


NSPのプロモーターも「こそこそが良いわけじゃないけど、公共施設で堂々とだからね。、、プロの話しは無しだな」と言って立ち去った。僕たちはスタッフの車で北上駅まで送ってもらい一関に帰った。駅には送ってくれた友達が「聞いたよ!最高だったよ」顔を赤らめて迎えてくれた。

僕のNSP日記~其の186

僕たち3人は天国から地獄にいた。数週間後に高専祭で演奏したのが最後だと思う。それ以来3人で会った記憶がない。JUNは物凄い速さで出会い成長し走り抜けFMリクエストアワーに出演したその日に実質的に解散した。高専祭の時には僕は既に仙台にいた。一関に見切りをつけていた。

僕のNSP日記~其の187

あの2人以上のメンバーと出会う可能性はないと判断したしラジオに出演する寸前に僕は高校で事件を起こし退学していた。FMリクエストアワーからも沢山のリクエストの葉書が来ているが番組の責任者が非行現場に立ち会った以上はあの日録音した曲の放送は出来ないと連絡があった。

僕のNSP日記~其の188

NSPとキャロルに多大な影響を受けた僕はその後仙台に行き仙台育英高校に入学し入学式にまたもやメンバーと知り合いロックンロールバンドを結成しポプコンに応募したけど録音の現場で喧嘩して失格。退学し上京し様々なバンドを経て1982年「トラブル」でメジャーデビューした。

僕のNSP日記~其の189


キャロルのジョニー大倉氏の命名でデビューした事からもギンギンのリーゼント、革ジャンスタイルのロックンロールバンドだった。
完全に都会に被れた僕⁈いや俺にはNSPの歌も聞く事はなくなっていたしその頃のNSPはシティポップス風な曲が多く正直全く魅力を感じなくなっていた。

 

僕のNSP日記~其の190


1989年2月僕は東名高速道路の養老インターチェンジ付近の車の中にいた。突然の大雪による渋滞に巻き込まれていた。僕は福井県で行われたNHK「みんなの歌」の公開放送に出演した帰りだった。こんなに大きな雪を見るのは久しぶりだった。心の中にNSPの「さようなら」が聞こえていた。

僕のNSP日記~其の191

14歳の終わり中3の時に初めで聞いたNSPの「さようなら」僕は30歳になっていた。上京し23歳で何とかデビューしシングル五枚アルバム三枚発表したけど売れずニューヨークに渡り帰国後新しいバンドを組んでライブ活動を続けていたけどレコード会社も所属する事務所もないままだった。

僕のNSP日記~其の192

ジョニー大倉氏が事故を起こし出演出来なくなった代理での番組出演の帰りだった。運転するマネージャーの助手席にいた僕の頭の中に突然歌詞とメロディが浮かんだ。僕は常日頃持ち歩いているカセットテープレコーダーに向かって歌い始めた「ちょうど一年前にこの道を通った夜」

僕のNSP日記~其の193

「何でもないような事が幸せだったと思う」録音しながら僕はマネージャーに「どう?いい感じだろ?」そう尋ねるとマネージャーは「何かフォークソングみたいっすね」と言って軽く笑った。歌い出した歌詞もメロディも止まる事を知らなかった。「ロード」が誕生した瞬間だった。

僕のNSP日記~其の194

「ロード」は当初僕たちの自主制作のCDの一曲に過ぎなかった。1992年5月に発売されるも宣伝ゼロでは全く売れなかった。しかし発売から半年後有線放送から火がつき翌年にリニューアルし発売しなCDが200万枚を越す大ヒットとなった。ある日「ジョージNSPのファンなんだって?」

僕のNSP日記~其の195

「ロード」のアレンジャーにそう言われた。「何で?」そう言うと「見た目から想像出来ないからさ。知り合いが天野さんと仲がいいから会えるか聞いてみようか?」僕は「マジですか⁈是非お願いします!」それからひと月も経たないある夜僕はアレンジャーと三宿の和食バーにいた。

僕のNSP日記~其の196

紹介してくれた人と一緒に天野くんは店に入って来た。売れるまでこの芸能界で散々暴れて来た俺も彼の前では中学生に戻って「僕」になっていた。何を話したかはあんまり覚えていない。ただ酒が強くない2人がかなり飲んで「次は広尾のおでん屋に行こう!」そう約束していた。

僕のNSP日記~其の197

the虎舞竜は「ロード」の大ヒットで初の全国ツアーを開催し最終日1993年8月2日には日本青年館のステージに立っていた。「ロード」を歌い終えると僕はNSPの「さようなら」を歌った。どうしても「ロード」を生んだのはNSPがいたからだと伝えたかった。天野くんは客席で観ていた。 

僕のNSP日記~其の198

NSPと出会ってちょうど20年が過ぎていた。中学生で公民館でNSPを歌っていた僕が、高校生でNSPを追いかけFMリクエストアワーに出た僕が天野くんの前で今「さようなら」を歌っている。
「もういいよ、さようなら」の歌詞の時、目が合い一緒に歌ってくれた。ありがとう、天野くん。

僕のNSP日記~其の199


2002年にNSPが日本青年館コンサートで復活した事は知っていた。何故か天野くんと連絡を取り合う事もなく時は過ぎていた。2005年のはじめに仲のいいミュージシャンから電話があり「天野さん癌なんだよ。治療を積極的に受けずコンサート出てるんだ。東京、最後になるかもしれない」

 

僕のNSP日記~其の200


僕は2005年3月12日渋谷公会堂にいた。アンコールの最後の最後は「さようなら」だった。イントロを何度も間違えて。僕は病状を聞いていたから。涙が止まらなかった。僕のヒーローは永遠のヒーローに変わろうとしていた。彼は生命を削ってでも歌って生きた証を残そうとしていた。

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